本稿の目的は, 明治初年から1880年代前半頃にかけての近代移行期において, 士族によって設立・運営された士族授産企業が如何にして創業資金を調達し, どの様な経営形態を構築したかを, 個別の士族授産企業の事例から考察することにある. その際, 当該期の地方において形成された企業組織の中でも, 合本形式に着目して明らかにしていく. 明治政府の行った秩禄処分の過程で, 1871年頃より各地で士族授産事業を展開していくにあたって, その事業主体となる士族の団体(結社)が結成されていくようになった. その中でも西洋から移植された企業としての要素を持った結社を士族授産企業と称する. 本稿では, 企業組織の中でも資本主義化を牽引していくことになる合本形式の士族授産企業が創成されていく過程を, 明治政府高官との関わりが深かった山口県をフィールドにして考察した. わが国最初の合本形式の株式会社は政府の指導もあって設立された国立銀行であり, 全国で設立された国立銀行が株式会社の雛形となったが, 国立銀行以外の業種では株式会社の受容は試行錯誤を繰り返しながら進められていった. 山口県において合本形式に近い企業形態として初めて誕生した士族授産企業が, 1875年に旧萩藩士族が設立した木綿聚社である. しかし, 同社では株式は発行されず, 有限責任制も備わっていなかった. 山口県に株式会社が受容される過程で大きなインパクトを与えることになるのが, 国立銀行の創設であった. 国立銀行(第百三国立銀行, 第百十国立銀行)の影響を受けて, 山口県士族が設立する士族授産企業はより株式会社に近いものへと進化し, その事例として, 殖鱗社やセメント製造会社(小野田セメント)等を取り上げた. 特に, 小野田セメントは士族に交付された金禄公債証書を資本に転化し, 有限責任制を具備した近代的企業として設立されたのであり, 山口県においても士族によって経済発展を主導することになる合本形式の企業(株式会社)が, 着実に受容されていったことを明らかにした.