『万葉集』の歌に見られる女性の立場は、恋歌において「待つ」存在であることが知られる。また母親として娘の監視や一族の神祭りにおいては巫女的な役割を演じているが、母系制社会の中の女性の役割と見られる。唐の律令を規範として作られた日本の律令は女性の地位は内廷に限られており、社会的な地位は男優位の形である。中国の『詩経』や六朝時代の詩では婚姻は母親の支配する所であり、嫁は弱い立場にある。このように古代社会にあっては内向きには女性の権限は有するものの、社会的には低い地位に置かれていたことが知られる。ただこれは習俗としての観念の範疇であると理解されるが、後に日中ともに儒教の婦徳などの影響を受けて行くことになる。近代に入り、平塚らいてうを中心とした女性たちが『青鞜』を立ち上げ、女性解放運動に取り組んだ。6年間の活動期間、田村俊子、加藤緑のような小説家を育てたが、平塚らいてう、伊藤野枝、山田わか、岩野清、青山菊栄ら多くの理論家も成長させた。その当時、中国は海外留学がブームになった最中であった。魯迅、郭沫若、周作人、陶晶孫、郁達夫らを先頭に、呉覚農、崔万秋のような文化人も多く日本にやってきた。民国の初期になると、何万人もの中国留学生は、「新声を異邦に求めるために」隣国日本に来て勉強するようになった。それと同時に、女子留学も人気があってブームになった。1906年から1911年にかけて、126人の女子留学生は、日本の大学に在学していた。その中でも胡彬夏、何香凝、秋瑾、楊陰瑜らは、日本への留学の代表的存在である。そして1917年から開始し、新らしい文化運動が中国社会で形成され、1919年前後高潮を迎えてきた。その中で「青鞜」女性と「新青年」の間に貞操論争を起こし、ヨーロッパのらエレン・ケイの思想と合わせて「新性道徳」論争を引き起こした。このように日中の古代と近代を対比しながらみると、そこには「家庭」に隠る女性から解放される女性という共通点が見えてくる。