新井白石(一六五七~一七二五)は、六代将軍徳川家宣、七代将軍徳川家継の政治顧問として、一七〇九年から一九一六年の間、幕政において重要な役割を果たした。彼が幕府に仕えた時期は「正徳之治」といわれた。白石は政治、経済の面において、様々な改革を実行した。そのほか、幕府の政治の中枢にいた白石は、一七〇九年に日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチを訊問した。シドッチを訊問したことによって、白石は多くの情報と知識を得、彼の西洋認識を成立させる契機となった。まず、白石は西洋の学問に対して、形而上のものを否定して、形而下のものを受け入れる態度を示した。このような西洋の学問に対する二分法の姿勢は、その後多くの人々に影響を与えた。白石はキリスト教を批判し、幕府の禁教政策を支持した。ここで注意しなければならないのは、彼のキリスト教批判と中国明のキリスト教批判とは通ずる所がある点である。オランダ認識の面において、日本はそれまでオランダを「通商の国」としか見なしていなかったが、白石は、オランダが他国への領土的な野心を幕府に宣伝し、彼等だけが日本との貿易を独占していると見抜いた。オランダは貿易の利潤を軍事に使い、アジアですでに植民地を持つ国であった。白石は、この国こそ「恐ろしい」国であることを指摘した。この「恐ろしい」国であるオランダは、その後国力が落ち、日本への外圧は、ロシア、アメリカ、イギリス等の国に取って代わられた。白石はいわゆる「危険」・「恐ろしい」ということが、西洋諸国の普遍的な特徴であるという認識を、すでに持っていたということがいえるだろう。一八世紀末から一九世紀前半にかけて、西洋諸国の日本に対する圧力が強まり、日本を取り巻く国際状況がますます緊張していった。このような白石のヨーロッパ認識は、しだいに対外危機意識として全国的に広がっていく。そして、この対外危機意識は海防論、攘夷論、富国強兵論などに発展していった。このことを考え合わせると、白石のオランダ認識は近世日本人の対西洋認識の始まりと言うことができるだろう。