Journal of East Asian studies Volume 20
published_at 2022-03-01
林京子の「黄砂」は一九七七年七月に雑誌『群像』に掲載された小説であり、一九三七年の上海租界での出来事を少女時代の「私」の目で描いたものである。この小説は原爆体験にはほとんど触れず、戦前の上海における少女の「私」と日本人娼婦お清さんの出会いと別れを描いた作品であるにもかかわらず、原爆小説集『ギヤマン ビードロ』に収録された。なぜ本作品が原爆小説集に入れられたのか、その理由について、林京子自身は、この「連作のなかに『黄砂』を持ち込んだのは、上海時代と八月九日以降の人生と生命、また私の底流にある戦争と時代を呼応させ、一つの環に結びたかったからです。それは、陽であったはずの上海時代も、負に転化する色濃い陰を持っているからです」と述べている。「色濃い陰」とは直接的にはお清さんの悲惨な運命を指しているのだが、お清さんにはさらに積極的な意義がある。「私」は作品冒頭において、お清さんとの出会いは「私の思考の原図ともいうべき出来ごと」であったと語っている。つまり、「私」における上海での幼時体験と長崎での被爆体験が「一つの環に結び」つけられるには、お清さんの存在が不可欠だったのである。本稿では、人間に対するお清さんの独自な見方が、「私」にどのような影響を与えたのかを通じて「黄砂」におけるお清さんの意味を追求し、作品の意義を明らかにしたい。
Creator Keywords