Journal of East Asian studies Volume 20
published_at 2022-03-01
有島武郎は『或る女』の執筆意図について、「醜」や「邪」、あるいは「堕落」にこそ目指すべき「人生の可能」があると述べている。従来、この「人生の可能」をめぐっては、それが『或る女』という作品でどのように主題化されているかという観点から論じられる傾向にあった。本稿ではこの問題に対し、作品の主題との関連にとどまらず、そういった発想を持つに至った有島の人生観の形成や、その人生観が作中人物早月葉子の形象にどう関わっているのかについても検討を加えていく。本来、「醜」や「邪」、「堕落」といったネガティブな概念は「人生の可能」というポジティブな展望と結び付くものではない。しかし、有島はそれらを半ば強引に結び付けていく。果たしてこのような特異な人生観はどのようにして形成されたものであるのか。本稿ではまず、有島の特異な人生観の形成について明らかにする。考察を展開するうえで着目するのは、有島とキリスト教の関係についてである。友人の森本厚吉に誘われてクリスチャンとなった有島は、アメリカへの留学中、キリスト教に順応できない自分の姿に悩み、空虚感に襲われる。この懐疑と苦悩は、制度や組織といったものに対する不信につながり、ついには背教へと至る。そして、制度としての宗教から解放された有島が向かった先は文学であった。有島にとって文学は、制度というものを介してキリスト教と対立的な関係に置かれているのである。その対立的な関係が象徴的に表れているものとして、本稿では<姦淫の女>に注目する。キリスト教の価値観では否定される<姦淫の女>に対し、有島は文学的な価値を見出していく。その価値を実践しているのが『或る女』の主人公早月葉子である。葉子は、社会制度上は蔑視される存在となる娼婦や芸者たちの生き方を羨望し、<姦淫の女>の生き方を肯定していく。葉子のこのような転倒した発想は、有島の堕落の先に「人生の可能」があるという特異な人生観に通じるものだと言える。ところが、葉子はこの特異な人生観を最後まで徹底することはない。ここに、作品に描かれる葉子の形象の揺れを見ておきたい。