既に20年以上前から、ヘーゲルのフィヒテ解釈を下敷きとした従来のドイツ観念論史観に抗して、フィヒテ研究者の間から、ヘーゲルの批判は一面的、非本質的でしかなく、逆にフィヒテの論述のうちに既に可能的にヘーゲル哲学の独断性を衝く決定的批判が含まれている等の指摘がなされ、哲学史観の根本的変更が強く要求されている。拙論は、これまでこの論争においてはただヘーゲル哲学とフィヒテ哲学の特異性が相互に際立たせられたに過ぎず、それらがわれわれの二者択一を迫るかたちで対決させられ得たわけではなかったという理解の下に,この対決の決裁的問題領域を探索し、それを正確に画定することを目指す。(以上、I. )この企図の下に、拙論は先ずヘーゲルのフィヒテ批判の要点を再検討する。拙論によれば、ヘーゲルのフィヒテ批判には、心理主義批判と図式主義批判という方法論的に異なった志向を持つ二つの側面があり、それらは実は同一の、より基本的な批判、即ち形式主義批判の二様態をなす。形式主義は形式[相]と質料を、あるいはまた形式[相]同士を相互に対立させたまま固持する「悟性」的立場であるが、心理主義は認識批判的な、そして図式主義は存在論的な問題関心の下での形式主義である。ヘーゲルは、それぞれの相貌の批判において、彼一流の〈概念〉理解をもってフィヒテに立ち向かっている。(以上、II. )しかし既に指摘されているように、ヘーゲルの批判はフィヒテのいわゆる前期の著作しか考慮に入れていない。フィヒテの思想に変遷があるとすれば、ヘーゲルの批判の正当性如何の問題は、それがフィヒテ思想の最終局面まで追い得ているかという点においても検討されねばならない。拙論は、まずフィヒテ思想の変遷の如何を何を前記のヘーゲルの批判点を配視しつつ、その関心の下で追求する課題に従事し(III.)、その後に両思想の正確な対峙点を見きわめようと企図する。(IV.)拙論本号部分は、まず、ヘーゲルの批判の好餌となった、『全知識学の基礎』における叙述形式(特に根本命題の複数性)に関するフィヒテの自己批判(III.1.)と、『新方法よる知識学』、『人倫の体系』等におけるそれの手直しを検討し、そこで「反省法則」として表現される、以下の思想変遷を貫徹するフィヒテの〈概念〉理解を紹介する。(III.2.2-1)