The philosophical studies of Yamaguchi University

山口大学哲学研究会

PISSN : 0919-357X

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 山本常朝は『葉隠』おいて、「奉公之至極之忠節」は「主ニ諫言して国家を治る事」である、と述べた。奉公人の主君に対する究極の「忠節」は、なぜ「諫言」だったのか。常朝が求めた「諫言」のあるべきあり方に着眼することにより、『葉隠』における忠誠の倫理の内実に迫ることが、本稿の目的である。
 常朝の説く理想の諫言は、第三者に主君の欠点を知らせないための「潜(ひそか)」なものであるべきだったと同時に、当の主君にもそれが「諫言」であると顕わに意識させない、「和の道、熟談」によるべきものだった。そこには、主君のありようを是非ともその本来的な姿へと導き正す、という強い目的意識に貫かれながらも、それを凌駕するほどの信念をもって、様々な欠点を抜きがたく抱えた現前の主君にどこまでも「御味方」しようとする姿勢が、認められる。他方、これに対置されるのは、諫言の客観的妥当性を憚らずに振りかざすことで、結果的には主君の悪名とひきかえに我が身の「忠節」ぶりを示すことにしかならない、広い意味における「理詰」の諫言である。そこにひそむ、現前の主君を置き去りにした我意や慢心を、常朝は深く嫌悪した。
 つまるところ、諫言において示されるべき奉公人の究極的な忠誠には、徹底した自己否定・自己消却の姿勢が求められた。それは、当の働きかけを結果的にあえなく咎められ、切腹という形で命ぜられる、肉体的な「死」に対する覚悟としても、貫かれたものだと言える。ところが『葉隠』には、一見してそれとは鋭く矛盾する、鍋島という無二の「御家」「国家」を己れ一人で支えるのだという「大高慢」を、奉公の根底に求める教えもあった。
 「奉公之至極之忠節」たる諫言において、両者はいかにして接合されたのか。これは『葉隠』に即して、また同時代の諸思想との比較や連関において、今後も追究されるべき課題である。なぜならそれは最終的に、自分にとってかけがえないこの他者に対する真の忠誠、あるいは誠実さがどうあるべきかという、人としての倫理を衝く問いに、連なっていくはずの探究だからである。
PP. 1 - 20
 五經の一つである『尚書』を,秦の焚書坑儒による亡佚の危機から救ったのが,もとの秦の博士である伏生である。その伏生の墓が,山東省鄒平市の韓店鎭と魏橋鎭の二箇所に殘されている。筆者は,昨夏その二箇所の伏生の墓を訪問する機會を得た。その際に,韓店鎭と魏橋鎭の二箇所の伏生墓の現況について調査を行った。韓店鎭と魏橋鎭はそれぞれ,舊鄒平縣と舊齊東縣に屬しており,訪問調査の結果と合わせて,歴代の『鄒平縣志』および『齊東縣志』に記載されている伏生墓に關する記述を確認すると,舊鄒平縣である韓店鎭の伏生墓は元代まで,舊齊東縣に屬する魏橋鎭の伏生墓は淸代までその存在を確實に遡れることがわかり,ほんとうの伏生墓がどちらであるのかについて議論が存在していることがわかった。
 そこで,傳世文獻に記載される兩墓についての議論の跡をたどり,歴代の學者たちによってどのような考證が行われ,それに基づきどのような議論が行われてきたかについて,その論點について整理を行なった。その整理の結果,『水經注』『太平寰宇記』『齊乘』などの諸書に記述される伏生墓と河川との位置關係が,鄒平伏生墓(韓店鎭)と河川との位置關係と異なることが問題とされていた。つまり諸書に記される,漯水が東朝陽縣の南から東に向かい伏生墓の南を流れ,さらに東に流れて鄒平縣の北を流れる場所に位置するということを,鄒平伏生墓(韓店鎭)が滿たしていないということが最大の論點であった。一方,齊東伏生墓(魏橋鎭)については,位置關係については齟齬がないが,その發見の過程において,證據となる碑が古いものではなく僞造であるとの疑いの存することがわかった。その碑は現在所在がわからないが,その記述される特徴からいわゆる北碑の流れに屬する碑であると考えることができそうである。
これらのことを合わせて考えると,どちらかを眞墓と認定する必要があるのであれば,齊東伏生墓(魏橋鎭)のほうが有力であり,鄒平伏生墓(韓店鎭)は伏生の故鄕に作られた衣冠墓であると考えることが穩當であろう。ただし,どちらも秦火から『尚書』を救い後世に傳えた大人物である伏生の功業を傳えるものであり,文化的價値は全く變わるものではない。
PP. 21 - 54
 本稿の目的は、釈迦仏出現を成り立たせた因果について、『今昔物語集』天竺部仏伝が示す理解の実態を明らかにすることにある。釈迦仏の背負う因果として、一つには、元来衆生であった存在が仏となった所以に対する問いが、もう一つには、釈迦仏という個別的存在者がまさにそのような個別的存在者であった所以に対する問いが、追究されていると考えられる。
 はじめに巻第五「仏前」巻に収められる諸説話についてその内容を概観する(第一節)。その上で、まず釈迦仏の本生譚を明示的本生譚と非明示的本生譚に分け、それぞれの内容の特徴を確認する。前者については、布施の修行ならびに捨身の重視という傾向を、後者については、一介の衆生として世俗にうずもれ過ごした前生をそのまま──釈迦仏の前生と明かすことなく──提示しようとする傾向を確認することができる。次いで、修行の中でもとくに重視される捨身の布施(身施)の意味について、釈迦仏が自らと他者との多生にわたる関係性を語った他巻所収説話も手がかりに考える。布施において前生の釈迦仏は、衆生といったん出会い、かりそめの救済をもたらしつつ、成道後の再会・教化・根源的救済を誓う。畜生など知に乏しい衆生を相手に確実に縁を結ぶための手立てとして布施が選ばれたと考えられる。一切衆生を現実に救済しうる釈迦仏の力能は、ひとりひとりの衆生とそのつど直接的に出会い、縁を結んだ布施行の集積により根拠づけられる(第二節)。個別的存在者としての釈迦仏の所以をめぐる問いについては、『今昔物語集』天竺部仏伝が現生の釈迦仏を語る際、釈迦仏とその親族との関係性をたびたび主題化している点に着目する。親族の中でもとくに父母との関係性をめぐっては、父母への孝養のために前生の釈迦仏が捨身の布施を行ずる本生譚があり、釈迦仏とその父母との相互に恩愛深い関係性が前生以来のものであることを示している。他方、妻との関係性をめぐっては、現生の夫婦生活における妻の不満とその原因を羅睺羅出家譚が窺わせているが、本生譚においても、釈迦仏が世俗の生活者であった前生に、自らの至らなさゆえに妻を恨ませたことが語られ、現生の不仲には前生以来の因もからむことが明かされる。釈迦仏が背負う因果への問いを通じて『今昔物語集』天竺部仏伝は、優れた人ではあったが決して完全無欠ではなく、私たちにも近しい"一人のひと"であった釈迦仏のありようを語っている(第三節)。
PP. 1 - 25
In this paper I will consider <discontinuité> as a positive element of the Bergsonian notion of <durée>.
Since his maiden book, Time and Free Will (1889), Henri Bergson (1859-1941) defines time as <durée>, which means uninterrupted continuity of the past, the present and the future. In opposition to Bergson, Gaston Bachelard (1884-1962), who begins to speculate on time in the 1930s, takes time to be essentially discontinuous.
According to Bachelard, it is not continuous <durée> but discontinuous <instant> that does give birth to something new, and this is why he criticizes Bergson. In my opinion, however, at least in the 1930s, Bergson himself tries to reconsider <durée> not only to be continuous but also to be discontinuous.
PP. 27 - 36
研究ノート
PP. 55 - 55