五經の一つである『尚書』を,秦の焚書坑儒による亡佚の危機から救ったのが,もとの秦の博士である伏生である。その伏生の墓が,山東省鄒平市の韓店鎭と魏橋鎭の二箇所に殘されている。筆者は,昨夏その二箇所の伏生の墓を訪問する機會を得た。その際に,韓店鎭と魏橋鎭の二箇所の伏生墓の現況について調査を行った。韓店鎭と魏橋鎭はそれぞれ,舊鄒平縣と舊齊東縣に屬しており,訪問調査の結果と合わせて,歴代の『鄒平縣志』および『齊東縣志』に記載されている伏生墓に關する記述を確認すると,舊鄒平縣である韓店鎭の伏生墓は元代まで,舊齊東縣に屬する魏橋鎭の伏生墓は淸代までその存在を確實に遡れることがわかり,ほんとうの伏生墓がどちらであるのかについて議論が存在していることがわかった。
そこで,傳世文獻に記載される兩墓についての議論の跡をたどり,歴代の學者たちによってどのような考證が行われ,それに基づきどのような議論が行われてきたかについて,その論點について整理を行なった。その整理の結果,『水經注』『太平寰宇記』『齊乘』などの諸書に記述される伏生墓と河川との位置關係が,鄒平伏生墓(韓店鎭)と河川との位置關係と異なることが問題とされていた。つまり諸書に記される,漯水が東朝陽縣の南から東に向かい伏生墓の南を流れ,さらに東に流れて鄒平縣の北を流れる場所に位置するということを,鄒平伏生墓(韓店鎭)が滿たしていないということが最大の論點であった。一方,齊東伏生墓(魏橋鎭)については,位置關係については齟齬がないが,その發見の過程において,證據となる碑が古いものではなく僞造であるとの疑いの存することがわかった。その碑は現在所在がわからないが,その記述される特徴からいわゆる北碑の流れに屬する碑であると考えることができそうである。
これらのことを合わせて考えると,どちらかを眞墓と認定する必要があるのであれば,齊東伏生墓(魏橋鎭)のほうが有力であり,鄒平伏生墓(韓店鎭)は伏生の故鄕に作られた衣冠墓であると考えることが穩當であろう。ただし,どちらも秦火から『尚書』を救い後世に傳えた大人物である伏生の功業を傳えるものであり,文化的價値は全く變わるものではない。