The philosophical studies of Yamaguchi University Volume 31
published_at 2024-03-23
山本常朝は『葉隠』おいて、「奉公之至極之忠節」は「主ニ諫言して国家を治る事」である、と述べた。奉公人の主君に対する究極の「忠節」は、なぜ「諫言」だったのか。常朝が求めた「諫言」のあるべきあり方に着眼することにより、『葉隠』における忠誠の倫理の内実に迫ることが、本稿の目的である。
常朝の説く理想の諫言は、第三者に主君の欠点を知らせないための「潜(ひそか)」なものであるべきだったと同時に、当の主君にもそれが「諫言」であると顕わに意識させない、「和の道、熟談」によるべきものだった。そこには、主君のありようを是非ともその本来的な姿へと導き正す、という強い目的意識に貫かれながらも、それを凌駕するほどの信念をもって、様々な欠点を抜きがたく抱えた現前の主君にどこまでも「御味方」しようとする姿勢が、認められる。他方、これに対置されるのは、諫言の客観的妥当性を憚らずに振りかざすことで、結果的には主君の悪名とひきかえに我が身の「忠節」ぶりを示すことにしかならない、広い意味における「理詰」の諫言である。そこにひそむ、現前の主君を置き去りにした我意や慢心を、常朝は深く嫌悪した。
つまるところ、諫言において示されるべき奉公人の究極的な忠誠には、徹底した自己否定・自己消却の姿勢が求められた。それは、当の働きかけを結果的にあえなく咎められ、切腹という形で命ぜられる、肉体的な「死」に対する覚悟としても、貫かれたものだと言える。ところが『葉隠』には、一見してそれとは鋭く矛盾する、鍋島という無二の「御家」「国家」を己れ一人で支えるのだという「大高慢」を、奉公の根底に求める教えもあった。
「奉公之至極之忠節」たる諫言において、両者はいかにして接合されたのか。これは『葉隠』に即して、また同時代の諸思想との比較や連関において、今後も追究されるべき課題である。なぜならそれは最終的に、自分にとってかけがえないこの他者に対する真の忠誠、あるいは誠実さがどうあるべきかという、人としての倫理を衝く問いに、連なっていくはずの探究だからである。