『基礎』と無神論論争の間の時期において、それ以降のフィヒテ哲学の変遷を貫通する主要思想が看取される。即ち1)自我・非我、及び理論理性・実践理性の統一性、2)生と思弁の分離、3)前二者の思想の根底をなす、意識における「反省法則」の根源性である。(2.2-1.)しかし無神論論争を契機としてこれらの連続性要素は変容を蒙る。論争のなかで特に超越者の我々への「関係」という視点が強調され、その影響でフィヒテの思想に、1)我々の生が超越者に支えられているという考え、2)生との対立における思弁・知の非実在性という考えを前面化する新たな二傾向が生じる。(2-2.)この展開を継承して『人間の使命』、『叙述』においては「絶対者」がとりたてて言及され、「絶対知」との区別が確立される。この時期において自我性を中心に置く従来の論述図式は絶対知の自己運動のそれと交替し、ヘーゲルの心理主義批判はその実効性を失うように見える。(2-3.)1804年の知識学講義は特に「絶対知」と「絶対者」の連関を主題化する。ここでは「絶対知」における、概念的自己把握を目指す螺旋上昇的運動のなかに同時に「絶対者」の概念把握を巻き込もうとする努力が叙述されるが、そこで鮮明に浮かび上がるのは、「反省法則」に支配される概念把握の本性が逆にそのことを不可能にしているという逆説的事態である。「絶対者」と「絶対知」の区別は、概念の本性に基づく「絶対知」の側からなされる差異化でしかない。(2-4.) 批判は原理的に、批判者と被批判者の相互批判でしかあり得ない。ヘーゲルの形式主義批判は根本的に、フランクフルト期の宗教・哲学の優位関係の逆転劇に目撃される概念の内在的統一能力への信頼に基づいている。ヘーゲルのフィヒテ批判の有効性の検討は、「絶対知」と「絶対者」の乖離を結果する「反省法則」的概念理解に対する可能的批判の是非を、この信頼の是非とともに検証する作業に帰着するだろう。しかしフィヒテにとって、この乖離は「絶対知」自身の実在性の根拠を「絶対者」において確保するという成果をもたらし、後者の前者への解消は「絶対知」の「空虚さ」の嫌疑からの解放を絶望的なものとする。ヘーゲルのフィヒテ批判の研究は、逆に、実在性問題に関するフィヒテの仮想的ヘーゲル批判の検討をも不可欠なものとして要求する。(IV)