Journal of East Asian studies

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Journal of East Asian studies Volume 9
published_at 2011-03

E.Spranger's Gedanken zur Lehrerseminar und Pädagogische Akademie

教員養成所と教育アカデミーに対するシュプランガーの見解
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D300009000004.pdf
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シュプランガー(E.Spranger,1882-1963)は1920年1月に『教員養成論』(Gendanken über Lehrerbildung)を出版し、新たに創設する3年制の教育者養成大学(Bildnerhochschule)で国民学校教員を養成すべきことを提唱した。しかし、この案は第一次世界大戦後の敗戦によるドイツの財政難から実現されず、当時プロイセン文部省で文部次官や文部大臣を務めていたベッカー(C.H.Becker,1876-1933)によって1926年に設立された2年制の教育アカデミー(Pädagogische Akademie)で実施されることになる。他方、ワイマール共和国以前のドイツの国民学校教員養成は、中等教育機関である教員養成所(Lehrerseminar)で行われていた。これに対して、ギムナジウム教員養成は伝統ある総合大学(Universität)で行われ、教職の種類によってはっきりとした格差がつけられていた。しかし、1919年8月、ワイマール憲法第143条第2項に、ドイツの教員養成は高等教育機関で行わなければならないことが明記されると、国民学校教員養成も従来のように教員養成所で行うわけにはいかなくなり、シュプランガーは『教員養成論』の中で、新たに教育者養成大学を設立すべきことを提唱したのである。以上のような経緯から、シュプランガーの教員養成所、教育者養成大学、教育アカデミーに対する見解は複雑に錯綜しており、彼の国民学校教員養成に対する「本心」を探っていくためには、当時のドイツの時代状況を踏まえながら彼が生前に書き残した多数の書簡類や覚え書を分析することが不可欠になる。そこで本稿では、シュプランガーが書き残した書簡類や覚え書を分析しながら彼の教員養成所と教育アカデミーに対する見解を探り、シュプランガーがどのような国民学校教員養成を理想と考えていたのかを明らかにしていくことを目的としている。(以下、略)