Journal of East Asian studies

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Journal of East Asian studies Volume 10
published_at 2012-03

On self-development in a college student : 『La Mauvaise Foi (Bad Faith)』 of J-P.Sartre

ある大学生の自己形成について : サルトルの「自己欺瞞」を手がかりに
Mitsue ryo
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1.74 MB
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若者たちの悩みの多くは、自らの杜会的役割に関するものである。しかし、「私とは誰か」という形而上学的・存在論的問いに悩まされる若者も少なくない。この悩みは人学が学び成長することとも関わっているが、はたしてこのような形而上学的・存在論的な悩みすらも社会的役割の問題として理解されてよいのだろうか。それは、まるで全ての人間の生活が社会という舞台の上で与えられた役柄を演じることのみになりはしまいか。だが、人問は学び続けるとか選択しなおすという活動を通して、獲得した役柄を捨て去り、はっきりとは意識しないまでも、存在の根源的レベルで「私とは誰か」と問い続けながら生活しているはずである。こうした問題を巡って、本稿初盤では、まず人間の存在の根源性に関する廣松渉とジャン-ポール・サルトルそれぞれの哲学的主張をとりあげ、その異同を考察する。これは〈私〉の意識の存在の根源性を巡るものである。筆者は、人格概念に近い社会性を持った人間のあり方が根源的であるとする廣松の主張と、意識の深層に自分をも否定しうる働きをもつ人間の在り方が根源的であるとするサルトルの主張の対立の整理を試み、意識の根源に触れようとする存在論的議論を教育学で行うことの意義を確認する。また、中盤では、サルトルによりながら、現代のある大学生が旅の途中で経験した、人間の意識の深層に関わる自己欺騰の事例を扱う。さらに終盤では、サルトルによる世界の根源的選択に依りながら自分探しの旅の記録を読み取ることによって、ある大学生の世界選択の変遷を辿る。これらの考察によって、人間の意識の根源に半透明的に確認できる根源的否定を見出し、その重要性を明らかにする。こうした議論を踏まえたうえで、最終的に筆者は、人間の存在論的次元、すなわち意識の深層における根源的否定に着目することで、現代の自己形成の問題について新生面が見出せるとする。