『今昔物語集』天竺部が描く釈迦仏は、悉達太子として生まれ、成仏を遂げた存在であるとともに、それより以前、幾多の生死を重ねて菩薩行を修し、成仏を求め続けた存在である。本稿では、天竺部における釈迦仏理解のうちでも、とくに過去生を介する理解の仕方について探究を目指す。巻第五所収の明示的前生譚群、および釈迦仏自身による幾つかの過去生語りの読解がその方法である。仏が過去生に修した菩薩行とは、基本的に捨身の布施行である。菩薩は個々の衆生と出合って身施を行じ、現に衆生が身に受ける苦を抜くことにより、仏となった未来に改めてその衆生と出合うべき因縁を作る。同時に、身と身の接触・通交を機に衆生の存在そのものへと親近し、その様相を如実に観る知を獲得する。仏のもつ知の特異な質が、全面的にとは言わないまでも、少なくともある程度は、身施という行の形態から理解されることになる。このときまた、衆生の教化に臨む仏のありようが、菩薩行に励んだ過去生のありようから理解されることになる。そのつど自らの身体・生命の時間を費やし、一々の衆生と出合おうと努める菩薩の実直は、衆生教化に臨む仏のありようそのものである。さらには、「平等一子の悲」と表現される仏の慈悲の原型についても、菩薩行を修した過去生以来、周囲の人々と結んだ関係の様態から理解されることになる。菩薩が身施を行ずるとき、その傍らには菩薩の身命を惜しみ、恩愛ゆえに離別の苦に苦しむ近親者たちがいる。菩薩が遂に仏となり、多生の縁をもつ近親者たちと再会して各々を救済へと導くとき、離別の苦に損なわれない次元において恩愛が最終的に成就する。仏はその記憶のうちに、かつて菩薩の行に否応なく巻き込まれて苦しんだ人々の思いを保持・反復する。菩薩の父母が菩薩のために生々世々流し続けた涙は、それ自体、煩悩の証にほかならないとしても、その多さ・熱さは、一切衆生のためにめぐらされる仏の慈悲の広大さ・深切さとどこか通底し、仏の存在の陰影を深めている。