共通教育科目の授業では、特定の技能やスキル、あるいは態度や志向性の育成を直接的に志向するよりも、学生自身が自分の力で積極的に読み、書き、考えることを通して、勉強への意欲と関心を喚起することを重視したい。そのためには、教師が一方的に知識や考え方を伝授する授業よりも、相互に対話を重ねる中で学生自身が考え、発言する対話型授業のほうが有効であろう。そこでは、学生達が積極的に発言する雰囲気が一人一人に刺激を与え、逆に個人の積極的な思考と発言を促す、そういう教室をどう立ち上げるかが課題である。本稿では、一つのケーススタディとして、平成21年度後期の「漱石の思想Ⅱ」の授業で『坊っちゃん』を読解した授業を取り上げ、その展開を追跡したい。授業で最初に問題になったのは、『坊っちゃん』において善人悪人の区別がつけられるかどうかであったが、作品の検討を通してその区別は容易につけ得ないことが認められた。しかし、不可知論に陥ることなくその状況に対処するには、どうあるべきかが問題となる。その中で「表面的な情報だけで物事を判断する恐ろしさ」が提起され、改めて自分自身と情報との関わりを見直そうとする方向に授業は展開した。また、うらなりの意味が問題になり、人間が言葉を自己正当化、自己弁護の道具として用いることが生き方をゆがめているのではないかという論点が提起された。善悪の基準がないところで、正しい生き方を志向すれば、自らの責任で状況を見定め、安易な二者択一に頼ることなく、暫定的な判断を下そうとする意思と覚悟が必要になる。むしろ、人間にとって大切なのは、そういう姿勢を維持することではないかというのが一応の結論であった。(以下、略)