本稿は、謡曲「姨捨」を倫理思想史の視点から読み解く試みである。「姨捨」の制作・享受が成り立つ基底にかなる倫理的思索が働いているか、多少とも探ることを課題とする。一曲は石化した霊魂を主人公とし、その特異な存在様態を通じ、およそ人々が共有する存在の基本的構造を現し出している。石化した霊魂はまず、大方の人々において暗黙裡に充たされているところの、存在の意味への欲求を顕わにする。石化した霊魂とは、自己の存在の意味を失い渇望し、遂に回復し得ずに終わった、その苦の表徴である。存在の意味の欠落に苦しむ主人公に触れるとき、人々は自らがさしあたり享受し得ている存在の意味の充足について、自覚を新たにする。充足から欠落への転換が人々の身にいつ生じないとも限らない、と認めるなら、特異と見えた主人公は、人々自身のもう一つの在りよう、蓋然的な一様相として捉え返されることになる。石化した霊魂はまた、自己の存在に対する意味づけについて、その根幹をなすのが自己反復であることを顕わにする。自己反復を行うには、自己が時間的存在様態をもたなければならない。通常この条件を欠く主人公にあって、自己反復はきわめて意識的に、歌・舞という美的形象化行為を以って遂行される。過去に生きられた苦が現在に歌・舞として展開されるにつれ、苦はもはや苦でなく、むしろ慰安に転じて再経験される。美的形象化行為を自ら営むことがない大方の人々も、生活の継続それ自体を以って日々に自己反復をなすと考えられる。