讃岐の庄松は妙好人中の妙好人である。浅原才市を「静」の人、因幡の源左を「動」の人と呼ぶならば、讃岐の庄松は「静にして動」の人と言うべきであろう。ただし、その整理は便宜的なものであって、彼らの間に決して優劣を見るわけではない。彼らの宗教的生の根底には、その現れ方は極めて個性的であるが、共通する何かがある。それを「すべてを相対化し、無化するものとの出会い」と表現することもできるであろう。そういう出会いなしには彼らの言動を理解することは不可能である。特に庄松の言動を通じて現れる宗教的生のダイナミズムには刮目すべきものがある。庄松は「ありてこまる、なけりゃならぬたすけたまえじゃ」と言う。そこには宗教的生の根源相が見事に表現されている。その根源相には①「一」の相と、②「二」の相と、③「一にして二」の相とがあると言える。そして、①と②とは③を機軸とした動的展開相と見ることができる。①はいわゆる佛凡一体(機法一体)の相を、②は徹底した悪の自覚の相、すなわち佛と凡夫との無限の懸隔、すなわち「二」の相を、③はまさにそういう「二」を顕わにする「一」、あるいは逆に「一」を顕わにする「二」を表出する。拙論では、この宗教的生のダイナミズムを庄松の言行録を基に明らかとする。それは確かに庄松という極めて勝れた宗教的個を通して表現される宗教的生の根源相ではあるが、われわれはそこに単に妙好人にのみ通底する浄土教的生の特殊相ではなく、より一層根源的・普遍的な宗教的生の根源相を見ることも可能であると思う。