古代中国の君主の国家支配・権力を象徴する「朝」空間には闕が設けられる。闕を設ける目的の一つは、君主が国民の冤罪を聴くことである。民衆は「詣闕」 を通して、君主に民間のことを報告することができる。「詣闕」空間は古代中国の「朝」空間の重要な部分である。本稿では、空間という視点から、「詣闕」空間の前身としての周の「民事」空間を検討し、先秦時代より民衆が国政に参加していたことがわかった。統一帝国時代に入ると、「詣闕」空間は「閉鎖的」な空間より「開放的」な空間に変わった。都城に入り、「詣闕」空間にたどり着くことができ、「詣闕」空間は皇帝と民衆が直接的な繋がりを結ぶ場所となった。ただ前漢に出現した「北闕下」の「詣闕」空間は、後漢の際に「南闕下」に変化した。北魏以来、「詣闕」空間は固定化された特徴が現れ、その後の中央集権の強化期には、「詣闕」空間が以前より内に移動する傾向があったが、「朝」空間の重要な部分として構築され続けたのである。古代中国の国家の中核空間において、民衆が政務参加できる空間が存在していたという歴史的事実そのものは注目に値すると思われる。