拙論は、妙好人浅原才市の詩を「なむあみだぶにこころとられて」という言葉を中心に再構成することを試みる。「なむあみだぶつ」は浄土教的信の根源語であり、才市の詩の多くもこの言葉で締め括られる。ただし、彼の詩の妙味はその「なむあみだぶつ」の只中において性起する逆転の切れ味にある。彼の詩のなかでは、まず念仏は「称える」ものから「聞く」ものへと転換され、さらにそれは「こころにあたる」ものとして出会われる。そして最終的にはその念仏との根源的出会いは「こころとられて」という言葉に凝縮され、彼の詩の中核を形成するものとなる。 また、才市の詩の多くは「慚愧と歓喜」あるいは「あさましやありがたや」と言われる対極的宗教感情の緊迫関係のなかで歌われる。それは徹底した自己否定であると同時に自己肯定であるような宗教的感情の直接的吐露である。ただし、「あさましや」は単なる自虐的自己卑下の言葉ではない。才市の詩のなかでは単なる自己内反省的自己は徹底して追い詰められ、その自己追窮の果てに逆転的に新たな世界が開かれる。また「ありがたい」も単なる自己満足・喜悦の感情ではない。それは「うれしかろうがかるまいが」現前到来するものである。この両者はその緊迫関係の極に「こころとられて」、すなわちまさに地底的に「うむしろい」と言われる根源的生の境位を開く。 また、この「うむしろい」と呼ばれる生の境位は、才市と弥陀とが「ひとつ」となるところであり、すなわち「機法一体」と呼ばれる境位である。それはまさに「言うこと絶えた」ところであるが、そこから実に一万首にも及ぶと言われる詩が歌われる。それはそこがすべてが変貌するところであるからである。浮き世が稼業がさらには世界そのものが変貌する。「まよいの浮き世がうむしろい」と言われ、さらには世界も虚空も空気も「うれし」と歌われる。またさらにそこでは、すべてが超脱され、才市は才市自身へ還り、世界は世界本来の輝きを取り戻す。才市の詩はそういう根源的生への展望を開いている。