The philosophical studies of Yamaguchi University

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The philosophical studies of Yamaguchi University Volume 4
published_at 1995

On Plato's Laches 197e-199e

プラトン『ラケス』197e-199eをめぐって : Vlastos, Penner, Devereuxの解釈の検討
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ソクラテスの「主知主義」という言い回しで通常理解されているように、ソクラテスにとって徳の獲得と活動のためには魂の下位部分の欲望を制御する必要はまったくないのだろうか。また、彼が「徳は一つである」と言うときの意味は何なのか。この二つの問いを念頭において、プラトンの初期対話篇『ラケス』のテキスト、特にニキアス論駁の箇所(197e-199e)について、副題にあげた代表的な3人の研究者の解釈を検討する。 まず、ニキアス論駁の前提「勇気は徳の一部分である」が提出される部分と、ニキアスの定義が否定される結論の部分のテキストからは、この前提が終始保持されているように見えることを確認する。次に、ニキアス論駁の議論そのもののを整理し、この3人の解釈者の対立点を明確にする。Devereuxは「勇気は恐ろしいものと恐ろしくないものの知識である」というニキアスの定義をソクラテスが否定すると考え、Pennerは「勇気は徳全体と同一である」をソクラテスの考えだとし、Vlastosはこの推論の論理的正当性をソクラテスが承認しないと考える。ニキアスの定義については、Devereuxの言うように、これは必ずしもソクラテスの承認するものから導かれないし、ラケスとニキアスの性格描写のされ方を含めた「ラケス」全体の構造から見ても二人の定義はどちらも十分でなく相互補完的に働くと見るのが妥当である。Pennerについては、「徳の一部分としての勇気」を考察の対象としようというソクラテスの言葉は、大衆の勇気概念の利用にすぎずソクラテス自身の考えではないという彼の論点には承伏しがたい。最後のVlastosの主張に関しては、ソクラテスがこの箇所の推論を自分のものではなくニキアスのものとしていることがテキストから読み取れるとする彼の解釈は疑問である上、DevereuxやPennerが言うように、この議論自体を誤謬推論であると無理に解釈する必要はない。 「ラケス」の内部だけに目を向けた時、ソクラテスの論駁のターゲットはニキアスの定義であるとするDevereuxの解釈の線が最も有力であろう。しかし、 Devereuxのように『ラケス』の議論がソクラテスの「主知主義」と相容れないと結論づけるのは早計ではないか。つまり、ニキアスの定義が含意する「あらゆる善悪の知」によって、徳に必要な知的要素が尽くされているのかが問題なのである。