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Kashiwaki Yasuko

Affiliate Master Yamaguchi University

Interdisciplinary studies in Japanese buddhism Volume 9 pp. 105 - 130
published_at 2011-05
Creators : Kashiwagi Yasuko Publishers : 日本仏教綜合研究学会
pp. 1 - 59
published_at 2014-05-20
Creators : 吉田 真樹 柏木 寧子 栗原 剛 上原 雅文 佐藤 正英 Publishers : 山口大学
pp. 1 - 53
published_at 2017-06
Creators : Uehara Masafumi Kashiwagi Yasuko Yoshida Masaki Kurihara Go Sato Masahide Publishers :
pp. 1 - 21
published_at 2018-06
Creators : Uehara Masafumi Kashiwagi Yasuko Yoshida Masaki Kurihara Go Sato Masahide Publishers :
Creators : Kashiwaki Yasuko Publishers : Yamaguchi University Faculty of Humanities Cross-cultural interchange & research institute
published_at 2022-09
Creators : Kashiwaki Yasuko Yoshida Masaki Uehara Masafumi
本稿の目的は『今昔物語集』天竺部における釈迦仏入滅の理解を解明することにある。はじめに巻第三第二十八話~第三十五話の入滅関連諸説話、および巻第四「仏後」巻の諸説話の内容を概観する(第一節)。そのうえで、二つの観点から入滅の理解を検討する。第一の観点は、釈迦仏の最後の言葉である(第二節)。『今昔物語集』天竺部仏伝はいわゆる「釈迦八相」を踏まえて構成され、とりわけ話数の多い第七「転法輪相」以外は、『過去現在因果経』をはじめとする『釈迦譜』所引の諸経典に依拠することが確かめられている。巻第三入滅関連説話も基本的に『釈迦譜』所引『大般涅槃経』等に拠るが、入滅の瞬間を語る一話は『大悲経』を原拠とする何らかの国書に拠ると推定される。弟子一同に「不放逸」の教えを説く釈迦仏ではなく、一子羅睺羅への哀愍を諸仏に祈る釈迦仏を語ることにより、『今昔物語集』は、釈迦仏一代の教化活動を貫く慈悲の本質、すなわち、しばしば「一子の悲」という語句で表現されるところの慈悲と恩愛との一体性を示したといえる。第二の観点は、入滅後の釈迦仏の身体・力能である(第三節)。現生を生きる一人のひとであった釈迦仏の“生身”が滅び去り、とくに実母など、多生にわたり仏と親密な交わりを結んだ仏の親族において、釈迦仏の存在の一回性、代替不能性が痛切に意識された。他方、滅後も仏の慈悲に与ることを切望する人々は、釈迦仏の霊魂の不滅を信じ、その依り代となりうるもの、あるいは“生身”を超えて存続する新たな身体を想定した。仏舎利や影像がその新たな身体、不滅の霊魂の依り代であり、"生身"の有した"個"としての具体性を弱める反面、時空による制約から解放され、遠隔の地にも拡散・伝播し、未来仏出世の時まで力能を顕現し続けると期待された。何らかの方途を通じて釈迦仏を供養し、一つのささやかな善をなした衆生は、無数の後生の間、絶えず釈迦仏の加護を受け続け、ついに究極的安楽に到達しうる。この世界内の衆生には釈迦仏滅後もその慈悲が及び続けているのであり、末法の世、本朝に生まれた人々も例外でないことを『今昔物語集』天竺部は示唆していると考えられる。
Creators : Kashiwaki Yasuko Publishers : 山口大学哲学研究会
 本稿の目的は、釈迦仏出現を成り立たせた因果について、『今昔物語集』天竺部仏伝が示す理解の実態を明らかにすることにある。釈迦仏の背負う因果として、一つには、元来衆生であった存在が仏となった所以に対する問いが、もう一つには、釈迦仏という個別的存在者がまさにそのような個別的存在者であった所以に対する問いが、追究されていると考えられる。  はじめに巻第五「仏前」巻に収められる諸説話についてその内容を概観する(第一節)。その上で、まず釈迦仏の本生譚を明示的本生譚と非明示的本生譚に分け、それぞれの内容の特徴を確認する。前者については、布施の修行ならびに捨身の重視という傾向を、後者については、一介の衆生として世俗にうずもれ過ごした前生をそのまま──釈迦仏の前生と明かすことなく──提示しようとする傾向を確認することができる。次いで、修行の中でもとくに重視される捨身の布施(身施)の意味について、釈迦仏が自らと他者との多生にわたる関係性を語った他巻所収説話も手がかりに考える。布施において前生の釈迦仏は、衆生といったん出会い、かりそめの救済をもたらしつつ、成道後の再会・教化・根源的救済を誓う。畜生など知に乏しい衆生を相手に確実に縁を結ぶための手立てとして布施が選ばれたと考えられる。一切衆生を現実に救済しうる釈迦仏の力能は、ひとりひとりの衆生とそのつど直接的に出会い、縁を結んだ布施行の集積により根拠づけられる(第二節)。個別的存在者としての釈迦仏の所以をめぐる問いについては、『今昔物語集』天竺部仏伝が現生の釈迦仏を語る際、釈迦仏とその親族との関係性をたびたび主題化している点に着目する。親族の中でもとくに父母との関係性をめぐっては、父母への孝養のために前生の釈迦仏が捨身の布施を行ずる本生譚があり、釈迦仏とその父母との相互に恩愛深い関係性が前生以来のものであることを示している。他方、妻との関係性をめぐっては、現生の夫婦生活における妻の不満とその原因を羅睺羅出家譚が窺わせているが、本生譚においても、釈迦仏が世俗の生活者であった前生に、自らの至らなさゆえに妻を恨ませたことが語られ、現生の不仲には前生以来の因もからむことが明かされる。釈迦仏が背負う因果への問いを通じて『今昔物語集』天竺部仏伝は、優れた人ではあったが決して完全無欠ではなく、私たちにも近しい"一人のひと"であった釈迦仏のありようを語っている(第三節)。
Creators : Kashiwaki Yasuko Publishers : 山口大学哲学研究会