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Kurihara Go

Affiliate Master Yamaguchi University

Publish Date (<span class="translation_missing" title="translation missing: en.view.asc">Asc</span>)
pp. 1 - 59
published_at 2014-05-20
Creators : 吉田 真樹 柏木 寧子 栗原 剛 上原 雅文 佐藤 正英 Publishers : 山口大学
pp. 1 - 53
published_at 2017-06
Creators : Uehara Masafumi Kashiwagi Yasuko Yoshida Masaki Kurihara Go Sato Masahide Publishers :
pp. 1 - 21
published_at 2018-06
Creators : Uehara Masafumi Kashiwagi Yasuko Yoshida Masaki Kurihara Go Sato Masahide Publishers :
『葉隠』の武士道において、有事の「武篇」と平時の「奉公」とは、いかにして統一されるか。「武篇」における死の覚悟と実践を一つに貫く「無分別」なありようを、「奉公」にもあてはめることは、果たして可能か。両者の間にある矛盾は、まずもって実践の側にある。「武篇」と「奉公」の実践は、「死」と「生」という基調の色合いにおいて、また時間的な長さと質において、大きく異なるからである。この矛盾は「奉公」の内部において、主君のために死する覚悟が、逆に長きにわたる生の実践を疵なきものにする、という齟齬をもたらすかに見える。しかし「奉公」における死の覚悟は、主君から浪人切腹を命ぜられるのが今日でも将来でもあり得る、という意味で、実はこれも、時間的に大きな振幅をもつものであった。また「奉公」における実践は、現実的にどれだけ長く継続されようとも、理念的には、戦闘の果てに死するという道のりを意味した。「奉公」における覚悟と実践の間に齟齬はなく、さらにその全体は、「武篇」における理想的な戦闘のあり方と通底している。「武篇」と「奉公」の違いは、"戦闘"がもつ時間的な射程とその質のみにあった。しかし、まさにその時間的な射程の長さゆえ、平時の「奉公」における武勇の実践は、有事の「武篇」にあっては認めにくい矛盾をなお、内に抱えている。武士としてその場にふさわしい言葉を出す、という例において顕著なように、「奉公」の実践は、入念な事前の準備と事後の反省とを、不可欠な前提とする。当座の働きは、両者に挟まれてはじめて継続され、磨かれもしたのである。すぐれて反省的で持続的な吟味と、それを「無分別」に棄て去り、超越した地点ではじめて立ち現れる当座の実践は、いかにしてつながるのか。この点をさらに追究することが、今後の課題である。
Creators : Kurihara Go Publishers : 山口大学哲学研究会
 山本常朝は『葉隠』おいて、「奉公之至極之忠節」は「主ニ諫言して国家を治る事」である、と述べた。奉公人の主君に対する究極の「忠節」は、なぜ「諫言」だったのか。常朝が求めた「諫言」のあるべきあり方に着眼することにより、『葉隠』における忠誠の倫理の内実に迫ることが、本稿の目的である。  常朝の説く理想の諫言は、第三者に主君の欠点を知らせないための「潜(ひそか)」なものであるべきだったと同時に、当の主君にもそれが「諫言」であると顕わに意識させない、「和の道、熟談」によるべきものだった。そこには、主君のありようを是非ともその本来的な姿へと導き正す、という強い目的意識に貫かれながらも、それを凌駕するほどの信念をもって、様々な欠点を抜きがたく抱えた現前の主君にどこまでも「御味方」しようとする姿勢が、認められる。他方、これに対置されるのは、諫言の客観的妥当性を憚らずに振りかざすことで、結果的には主君の悪名とひきかえに我が身の「忠節」ぶりを示すことにしかならない、広い意味における「理詰」の諫言である。そこにひそむ、現前の主君を置き去りにした我意や慢心を、常朝は深く嫌悪した。  つまるところ、諫言において示されるべき奉公人の究極的な忠誠には、徹底した自己否定・自己消却の姿勢が求められた。それは、当の働きかけを結果的にあえなく咎められ、切腹という形で命ぜられる、肉体的な「死」に対する覚悟としても、貫かれたものだと言える。ところが『葉隠』には、一見してそれとは鋭く矛盾する、鍋島という無二の「御家」「国家」を己れ一人で支えるのだという「大高慢」を、奉公の根底に求める教えもあった。  「奉公之至極之忠節」たる諫言において、両者はいかにして接合されたのか。これは『葉隠』に即して、また同時代の諸思想との比較や連関において、今後も追究されるべき課題である。なぜならそれは最終的に、自分にとってかけがえないこの他者に対する真の忠誠、あるいは誠実さがどうあるべきかという、人としての倫理を衝く問いに、連なっていくはずの探究だからである。
Creators : Kurihara Go Publishers : 山口大学哲学研究会