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Action and Knowledge

The philosophical studies of Yamaguchi University Volume 1 Page 1-28
published_at 1992
C070001000001.pdf
[fulltext] 1.59 MB
Title
行為の知
Action and Knowledge
Creators Takemiya Akira
Source Identifiers
Creator Keywords
アクラシア アリストテレス プラトン ソクラテス プロタゴラス 無抑制 真理 行為の知
周知のごとく、アクラシア(無抑制)の問題は、アリストテレスがプラトンの説を受けてこれに批判的に吟味を加えて以来、今日においても哲学上の重要な問題であることに変わりはない。しかしその重要性は本当のところ何処にあるのであろうか。プラトンにとっても知が徳のための充分条件であることが一貫して取られたかどうかには、必ずしも意見の一致があるわけではない。しかしこの問題の根は、いうところの知の成立を何処で抑えるかということにあると思われる。従って本稿では、直接アクラシアの問題を論じることはせず、むしろ自己の無知を自覚したソクラテス・プラトンがそこからどのような展望のもとに「学習こそがよくなすことである」という道を切り開いていったかを明らかにすることを目標にした。その点の考察が最近のこの問題をめぐる論争には全く考慮されていないように思われる(一章)。そこから始めて、プラトンが「徳は教えられるか」と問うたのは、既に倫理的性状としての徳を越えたところにおいてであり、真の徳が成立する場において知の成立を求めようとしていることを明らかにする。この徳の成立する場とは行為者が自己自身を吟味する内省の場であり、そこにおいてまた「真理」という語も語られることになる(二・三章)。この「真理の吟味」がなされる場面は、『プロタゴラス』篇では、所謂シモニデス解釈の中で展開されていると考える。そこでは人間の意欲・意図は一貫して善や美に結び付けられるが、しかしこの場は自己自身の吟味の場でもあるから、自己自身が明らかになると共に真に自発的な行為もまた成立することになる。その点で決してソクラテスは自己を知者の立場に置かない。それでは自己が明らかになるのはどうしてであろうか。ソクラテスはそれを善や悪、要するに「最も大事なこと」についての言論を吟味すること以外にはありえないと考えた。このようにして、「よい」ということの理解の深まりとして自己の確立、ひいては知の成立を求めたのではなかろうか。
Languages jpn
Resource Type departmental bulletin paper
Publishers 山口大学哲学研究会
Date Issued 1992
File Version Version of Record
Access Rights open access
Relations
[ISSN]0919-357X
[NCID]AN10403441