The philosophical studies of Yamaguchi University

山口大学哲学研究会

PISSN : 0919-357X

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The philosophical studies of Yamaguchi University Volume 29
published_at 2022-03-28

Resolution and practice in “Hagakure”

『葉隠』における覚悟と実践
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哲学研究-第29巻-001.pdf
『葉隠』の武士道において、有事の「武篇」と平時の「奉公」とは、いかにして統一されるか。「武篇」における死の覚悟と実践を一つに貫く「無分別」なありようを、「奉公」にもあてはめることは、果たして可能か。両者の間にある矛盾は、まずもって実践の側にある。「武篇」と「奉公」の実践は、「死」と「生」という基調の色合いにおいて、また時間的な長さと質において、大きく異なるからである。この矛盾は「奉公」の内部において、主君のために死する覚悟が、逆に長きにわたる生の実践を疵なきものにする、という齟齬をもたらすかに見える。しかし「奉公」における死の覚悟は、主君から浪人切腹を命ぜられるのが今日でも将来でもあり得る、という意味で、実はこれも、時間的に大きな振幅をもつものであった。また「奉公」における実践は、現実的にどれだけ長く継続されようとも、理念的には、戦闘の果てに死するという道のりを意味した。「奉公」における覚悟と実践の間に齟齬はなく、さらにその全体は、「武篇」における理想的な戦闘のあり方と通底している。「武篇」と「奉公」の違いは、"戦闘"がもつ時間的な射程とその質のみにあった。しかし、まさにその時間的な射程の長さゆえ、平時の「奉公」における武勇の実践は、有事の「武篇」にあっては認めにくい矛盾をなお、内に抱えている。武士としてその場にふさわしい言葉を出す、という例において顕著なように、「奉公」の実践は、入念な事前の準備と事後の反省とを、不可欠な前提とする。当座の働きは、両者に挟まれてはじめて継続され、磨かれもしたのである。すぐれて反省的で持続的な吟味と、それを「無分別」に棄て去り、超越した地点ではじめて立ち現れる当座の実践は、いかにしてつながるのか。この点をさらに追究することが、今後の課題である。